離婚してから3カ月も経たないうちに、私は特養を辞めた。

退職を申し出る直前、施設長は私を、ひどくこき使うようになっていた。

私の離婚と、ほぼ同じタイミングでケアマネジャーが入職したこともあり、介護業務をより多く担当させられるようになったのだ。昼はケアマネ業務をこなした上で、夜勤を求められることなど、ごくざらにあったし、施設全体のイベントの仕切り役を押し付けてくることもあった。

もう、こんな激務には耐えきれません。有給休暇を消化した上で、来月末で辞めます―。そう言って、突き付けられた退職届を、施設長は、ごくあっさりと受け取った。

「そうですか。離婚されて、何かと物入りかな、という配慮から夜勤を多めにお願いするよう、指示したのですがねぇ…。耐え切れないのであれば、しょうがないです。長年、ご苦労様でした。何か困ったりしたら、いつでも声をかけてください。できるかぎりの支援はします」

舐めるように私の身体や顔に絡みつく、ねっとりとしたその視線が、たまらなく汚らわしい。ありきたりのいたわりの言葉ですら、金で性欲を満たそうとする、いかがわしい提案に聞こえる。

「ご心配なく。次は居宅介護支援の現場でがんばります。施設と関わることは、まずありません。お世話になりました」

たたき切るように言い捨て、事務所を出た。空調が効いた室内から外に出ると、強い夏の陽ざしが、四方から降り注ぎ、肌を焼く。思わず目を上げると、真っ白な雲と深い色をたたえた青空のコントラストが目に飛び込んできた。

やっと、開放された―。そんな実感とともに、弘美さんに電話を掛けた。弘美さんは、私の退職より早く、施設を出ていたのだ。

「今日、無事に施設を辞めました。ちょっと休んだら、居宅介護支援の現場で働きます」
驚くほどほがらかに伝える自分がそこにいた。

―おめでとう。近いうち、また遊びに来てね。

◇

今、弘美さんは、正さんの介助を受けながら自宅で暮らしている。

もちろん、介護サービスも使っている。小柄な正さんが弘美さんの入浴介助をするのは、ちょっと難しいから、入浴に力を入れているデイサービスを週3回、利用しているようだ。また、弘美さんでも、自力でトイレに行き、用を足せるよう、屋内には複数の手すりが設置された。

ちなみに、私が弘美さんのケアマネジメントを手掛けているわけではない。そのサービスの状況を知っているのは、ケアマネとしてではなく、友人として、弘美さんの家を訪問するようになったから。

「これから1カ月ほど、有給消化でのんびりしますから、ちょっと頻繁にお伺いしてもいいですか」

―いいわよ！毎日でもウェルカムよ。

◇

退職から一週間。1泊2日の温泉旅行に行った以外は、実家でのんびりと過ごした。

ちなみに離婚して以降、私は実家で生活をしている。

証拠の写真も見せながら「直人の不倫が原因で別れた」と伝えた時は、父も母も、顔を真っ赤して怒りながらも「あの直人君が？！…」と半信半疑の様子だった。そして「落ち着くまで、気が済むまで、実家にいるといい」とも言ってくれた。

その言葉に甘え、新たな職場を見つけるまでは、親の厄介になることにした。

（でも、そろそろ、再就職するか、思い切って1人ケアマネとして独立するか、本気で考えないとね）

離職から10日ほど経ったある朝。そんなふうに考えながら実家で朝食を摂っていた時、私のスマホが鳴動した。直人との離婚にあたり、協力してくれた弁護士からだった。

もう、離婚に関する手続きはすべて終わっているはず。一体、何の連絡だろう。

その電話で伝えられたのは、全く想定していなかった事実だった。

―昨日、直人さんが亡くなったそうです。いえ、事故ではなく病死です。顔を出されるかどうかはともかくとして、通夜の情報はお伝えします。時間は今日の夜19時から。場所についてはショートメールで伝えます。